弊社代表の職務経歴書

応募をご検討中の皆さまへ

株式会社セルナビの代表、佐藤です。
「親と上司は選べない」とよく言われますが、価値観や考え方が合わない上司の元で働く辛さは私も過去に経験したことがあります。

「応募してみたいけどどういった上司の下で働くのかわからずいまいち不安...」

皆さんのそんな不安を少しでも払拭できるよう、私の職務経歴書を公開させていただきます。
人様に自慢できるような経歴では全くないのですが、お読みいただければ何となく将来の上司のことを少しでも知っていただけるのではないかと考えております。
まだ存在する会社ばかりなので、文中では社名などの情報は全て伏せさせていただきますが、こちらがご応募にあたってのご参考になれば幸いに存じます。

①学生時代のバイト

私は社会に出る前は、ピザ屋、食品加工工場、チラシ配り、建設作業、印刷工場、宅配屋、調理、ボーイ、清掃人、配膳人など、短期も合わせると恐らく30職種は越えるほど様々なアルバイトを経験しました。

ただ、ほとんどの方が同じだと思いますが、最初の頃の目的は単にお金を稼ぐことだけでした。 仕事そのものに個人的な興味は持っていなかったので、勤務終了間際には時計を見ながらそわそわしだし、終了時間と共に即座にタイムカードを押して退社、ということの繰り返しだったように記憶しています。

ですが様々なバイトを転々としているうちにやがて、出勤時間が待ち遠しくなる職場に出会うこともありました。
特に思い出深いバイト先は大学3年生から卒業間際まで働いてた食品加工工場の夜間勤務バイトでした。 ここは給与の週払いにも対応していたからか、学生だけでなく様々な人達が集まっていました。 大学を途中でドロップアウトして長くフリーターをやってる人も多くいましたし、一度は社会人として勤めていたもののブランド品や自動車等のローンでクビがまわらなくなり、泣く泣く勤めていた会社を辞めた人や、借金取りから日々逃げ回っているような境遇の人もいました。
そのような人達から社会人としての様々な経験や失敗談を聞けることが、当時まだ学生だった私にとってはとても刺激的で、また仕事の面でも学ぶべきことが多かったです。

実際のところ、彼ら社会人経験者達の仕事に対する姿勢はバイトの身分にも関わらずかなりハイレベルでした。
仕事後にバイト全員を呼んで集会を開き「いかに効率的に仕事を進めるか(もっと楽してサボれるか)といった事や、 「いかにして生産性を上げるか(もっと時給を上げさせるか)といった課題についても積極的に話し合うことが度々ありましたが、 そこで話し合った結果を仕事に反映してみると、目を見張る成果を出すことができ、またそれが全員の更なる労働意欲向上に直結しました。

元々の動機はともかくとして、それ以前のバイト先では、上から言われた仕事をただこなすだけの人達しか見ていなかったので、バイト同士が自発的に集まって集会を開くといった光景は本当に驚きで、 ここでの経験はその後の私の仕事に向き合う姿勢を一変させるものでした。

バイト先の思い出
このバイト先はホントに色々な人達がいました…

②身の丈に合った就職活動

私は高校の時に米国のMaryland州に留学し現地の公立高校を卒業したのですが、英語を話すことが好きだったということもあり、 就職活動を始める前までは漠然と「英語を生かした仕事に就きたい。できれば大手で。」などと軽く考えていました。

ですが、当時はバブルが弾けて間もない時期であり、就職戦線は完全な買い手市場です。 しかも大学時代の私は、日々の講義をせっせとサボりまくり、バイトやら旅行やら車いじりやらTVゲームに現を抜かしていたものですから、私の成績表は中~下が7割以上を占める事態となり、 就活で思うような成果が出せませんでした。
そして初期に希望した就職先のほとんどの選考に落ちた頃になり、私はようやく現実を認識するに至ります。

まあこの事は事前に大学の就職課の方から警告はされていたわけですが...今思い返すと本当に馬鹿だったのですが、その時は「なんとかなるっしょ」くらいのノリで考えていました。
で、周りの友人達の就職先がちらほら決まり始めた頃、ついに私は身の丈に合った就職先(ボチボチと)探し始めました。

方向転換して一般的にあまり人気が無い業種にも目を向けだしたわけですが、私にはエントリー先を探すにあたって一つだけ決めていた条件がありました。
それは「自分が好きな物or事を扱っている仕事」です。
会社規模、年間売上、初任給の額、上場してるかどうかとか(そもそも入れないけど)といった事は条件には含めず、ただひたすら自分が好きな物を扱っている企業に次々とエントリーし続けます。
当時はバブル経済崩壊によって国内の産業隆盛が大きく変わってしまった直後という事もあり、経済の先行については経済アナリストの意見ですら曖昧でしたし、応募先選考にあたっては業界の将来性すら無視していました。

そしてやがて、いくつかの企業で若干の手ごたえを感じ始めた頃、とある企業の会社説明会に参加した私は、採用担当の方に個人的に色々と質問をぶつけていました。 あの時は「どうせこの会社もまた落ちるんでしょ」くらいの気持ちで開き直ってましたから、色々と失礼な質問もしてしまったかもしれません。

がしかし、その開き直りが功を奏したのか、後日にその採用担当の方から直接電話をいただくこととなります。
そこはエンジン付き産業機械や建設機械などを専門に扱っている商社でしたが、そこで私はセールスエンジニアの職に就くことを提示していただきました。
私は昔からオートバイや自動車の趣味を通じ、整備やら修理やら改造やらと日常的にやっていたほどエンジンを含めた機械的な仕掛けを持つ物が好きでした。 またここは海外から機械・資材の輸入も手掛けていて、英語を使う機会があるというも点も気に入り、迷うことなくこちらの会社にお世話になることにしました。

就活で面食らったこと
90年代当時、試験免除の人達が先に帰る光景を実際に見せられました。

③初めての就職先

初めての正社員勤務です。日々見るもの、知る事の全てが新しく、私は毎日の出勤が楽しみで仕方がありませんでした。

新人のうちは自分の担当客がまだいないので、担当地域を営業車でまわりながら飛び込みで新規顧客を開拓することが日課です。 飛び込み営業というと一般的には辛いイメージしかないかもしれませんが、私の場合はあまり苦ではありませんでした。
学生の時から自動車やバイクの中古パーツやら車両本体やらの個人売買を数多くこなした経験からでしょうか。見知らぬ他人と話すことも、物を売り買いする行為も自分なりに楽しんでいたと思います。

ですが、仕事内容は気に入ったものの、会社組織に対しては常に不満を持っていました。
創業50年を越える社歴の長い会社だったため社内には古い慣習が多くあり、非合理的な社内ルールの数々に日々辟易していました。

思い返すと、当時は会社の良い面についてはあまり見ておらず(気づかず)、私は上司に営業指針や社内規則、勤務環境などについて改善提案ばかりをしていた記憶があります。
しかし当然ながら、入社してまだ日が浅い新人の提案など会社が簡単に受け入れるわけもなく、そのため私はいつも何かしらの不満を抱えながら仕事をしていました。
「自分は周りより仕事ができる」という根拠の無い自信を持っていて、先輩や上司から学ばせて頂くという謙虚な姿勢がかなり欠けていたのは間違いありません。 ですが、当時は若さと勢いだけで生きてましたから、私はそんなことには全く気づきません。

そんな折、ご縁で都内のとある会社の代表の方をご紹介いただく機会があり、その方と話しているうちに「自分は今の会社から出たほうが活躍できるのでは...」という考えを持つに至ります。
そして私は、その後のことはあまり深く考えずに、お誘いを受けて転職を決心しました。

新人時代の思い出
本気で間違え、本気で怒られました。

④甘かった転職

私は約4年勤めた商社を後にし、人生初の転職をすることになりますが、その後すぐ自分の考えの甘さに気づくことになります。

その会社はとある製品を扱うメーカーでした。
前職とは業界的な慣習や営業先へのアプローチの仕方が異なるので、そこに慣れるまでは少し苦労しましたが、コツをつかめばそのあたりで苦労することは徐々に無くなりました。

しかし、自分の努力だけでは何ともならないこともありました。
直属の上司からかなり酷いパワハラを受け続けていたのです。

当時はパワハラという言葉は無かった時代ですが、営業の世界では体育会ノリの会社がまだ多く存在していました。
前職もどちらかというと体育会系の職場でしたので、上司から叱られたり軽く小突かれたりする程度のことはよくあったのですが、 ここではあまり詳細は書けないのですが、この会社でのパワハラは当時の常識に照らし合せても明らかに度を越していました。

そして比較的鈍感な私ではありますが、そのような日常に身を置き続けていることで、やがて心に変調をきたしてしまったのです。
今でもたまに夢で見るほどなのですが、ある日、会社の最寄り駅を降りた私はしばらく足が棒のようになって動かなくなり、出勤することができなくなりました。
その時は「あれ?なんで身体が動かない?」とただただ混乱しかなかったのですが、後になり、あの時は無意識に心が出勤を拒んでいたのだと気づきました。

恐らく鬱病か軽いノイローゼになっていたのかもしれません。
結局私は、入社して1年ももたずに私はこの会社を退社することになりました。

パワハラ星人との戦い
なんかもう色々と辛すぎて…

⑤気が付けば無職に

退職して無職になった私は、会社に行かなくてもよくなった事に幸せを感じていました。
ですが徐々に暇をもて遊び始め、やがては仕事もせずに日々ふらふらしている生活に疑問を持つようになります。
当時は週休2日の会社はまだ少なく、土曜日は出勤するのが当たり前の時代でしたから、会社員の時はたった2連休が入るだけでも大喜びしていました。
ですが不思議なもので、以前にはあれほど長い休みを心待ちにしていたにもかかわらず、1ヶ月も休んだ頃にはその事に対して罪悪感を持つようになってしまったのです。
私が社会に出る少し前には「24時間働けますか?」というキャッチフレーズのCMも当たり前に流れていた時代でしたし、私だけでなく、恐らく当時は長期休暇を取ることに対して罪悪感を持つ人は今以上に多い時代だったかもしれません。

無職時代の思い出
実際、この手はたまに使ってました。

⑥フリーターへ

そんな折、前々職での営業時代に、自分の担当顧客だった建設会社の社長から「いつでも遊びにおいで」と言われていたのを思い出し、のこのこ事務所に遊びに行ったことが私の次の転機になりました。

大変お世話になった会社のことをこう表現するのは少し憚れるのですが、、、そこは雑木林の中にあるドロとカビの臭いがする小さなプレハブ小屋の事務所で、従業員も口数が少ないガラの悪い男達ばかり。
お世辞にも「ステキ!」とは言えない職場環境ではあったのですが、そこの従業員さん達と会話をしているとなぜか大変居心地が良く、安心することもできました。

また、ここの社長は私より少し年上なのですが、私にとっては「アニキ」と呼びたくなるような存在でもあり、自分が営業担当だった頃はこの方と話したいが為にここへ足を運ぶこともよくありました。
その社長に自分の境遇を話したところ、「じゃあウチでバイトしてよ」と暖かくお声をかけてくださいました。

私も近隣住人の目を気にしながらコソコソする生活には嫌気がさしてましたので、このお誘いを受けてバイト作業員として雇っていただくことになります。
お蔭様で、無職からフリーターに出世できた私ですが、仕事は屋外での土木工事だったので体力的にはかなりきつかったです。

ですが、基本的に他人との共同作業ではあるものの、任された範囲で一人で行う作業も多く、私はこの仕事を通して徐々に心のリハビリができたように思います。

また出先となった建設現場が「日産スタジアム」や「横浜動物園ズーラシア」「海の公園」など、その後の有名施設ばかりだったのですが、日々大きなモノが出来上がっていく現場の様子を自分なりに見て楽しんでもいました。
ただ残念なことに、この仕事は入りが不定期だったので、すぐに交通誘導員(警備員)のバイトも新たに始め、並行して働く生活になりました。

ちなみに何故それほどバイトを頑張っていたかというと、生活以外に別の目的がありました。
フリーター1年目の終わりあたりからCG(コンピューターグラフィックス)の勉強のためにデザインスクールへ通い始めていたので、その学費を稼ぐ必要が生じていたのです。

人目を避けたフリーター時代
かなり辛い時期ではあったけど、なぜか一番思い出深い時期でもありますね。

⑦CGデザインスクールへ

昔から絵や漫画を描くことが趣味だった私は、日本の高校でもその後に留学した米国の高校でも美術部に在籍していました。 その流れで大学も美大に進学したかったのですが、「絵では食えない」という当時の世間の常識と、金銭的な事情により断念した経緯がありました。

ところが時代は変わり、パソコンの普及により簡単にデジタル上で絵が描けるようになり、またインターネットの普及によりCG制作のニーズがかなり高まっていました。

そんな折、CGデザインスクールというものがこの世にあることを知ったのですが、色々と調べている中で某スクールの宣伝文句「未経験者でもゲームクリエーターに!」が目に飛び込んできまして、 単純な私は「ゲーム大好き!そして絵が得意な自分ならゲームクリエーターになれる!」という考えに即座に至り、 それが自分の次の目標になっていました。

フリーターになってからは、昼間は2つのバイトを掛け持ちし、夜はCGデザインスクールで2Dソフト、3Dソフト、Webサイト制作などの勉強をし、 スクールが終わった夜中や休みの日はひたすら自分のデザイン作品を作る毎日でした。

この時期になると、知人がWeb制作の在宅仕事を紹介してくれたので、不定期ながらもその仕事もたまにしていました。
現在の弊社ではWeb系システム開発やサーバ構築、API開発等も行っていますが、それは私がこの時に必要に迫られて学習したWeb系プログラム言語やSQL等のスキルがその出発点になっていますので、 この仕事をご紹介いただいたことには今も心から感謝してます。

私は恐らくそのままWeb系の業界を目指すこともできたのですが、ゲーム開発会社にCGデザイナーとして就職するという目標を変えたくなかったので、 毎日ひたすらCG作品を作り、あちこちの開発会社に応募していました。

ちなみに、この当時「ゲーム開発」と言えばコンシューマーゲーム開発のことを指すのですが、スクール入校後に初めて知ったのですが、コンシューマーゲーム系のデザイナー求人は、美大出身の新卒者、もしくはゲーム業界での勤務経験を持つ中途者だけを募集しているところがほとんどでした(90年代当時)。
私は美大も出てませんし年齢も既に30歳が目前でしかも業界未経験者というオールドルーキー(候補)でしたので、 その真実を知った時の衝撃は相当なものでした。 つまりスクールの宣伝文句「未経験者でもゲームクリエーターに!」は誇大広告だったというわけです。
そのような背景もあり、周りからは「Web系だったらすぐ就職できる」と助言をもらう機会も多かったのですが、私はまだ目標を変えるつもりはありませんでした。

昼のバイトが体力仕事なので夜にはまぶたが重たくなり、毎日眠さと戦う日々でしたが、書類選考に落とされてはまた新しい作品を作り直し、また落とされては作り直す、そんなことの繰り返しがしばらく続いていました。

そして、少なくとも30社以上は落とされたある日のこと、私は都内のとあるゲーム開発会社からようやく内定をもらうことができました。

気がつけばいつの間にかフリーターではない自分がいて、しかもその職業は憧れだったゲーム開発のCGデザイナー
2年半ほの短い期間でしたが、一つの目標に向かってがむしゃらに励み、その目標を達成したこの時期のことは、その後の自分にとって一つの大きな自信になりました。

攻めた面接
実際、面接ではこんなことは言わなかったけど。

⑧都会でキャンプ生活

念願がかなってようやくゲーム開発会社に就職できた私ですが、勤務初日の感想は「エアコンの効いた部屋の中、椅子に座って仕事ができるって幸せ...」でした。
最初に勤めた商社は営業で外回り、次の会社はメーカー営業だったので外回りの他、樹脂工場のラインへ応援派遣されることもありました。
土木作業も警備員も屋外仕事でしたし、常にエアコンが効いた部屋にいられる職に就いたのは実はこの会社が初めてだったのです。

しかしながら、入社してすぐに「寝袋を持ってきたほういい」と言われたことには驚きました。
従業員数は100名以上のそこそこの規模の企業だったのですが、見渡してみれば開発スタッフのほとんどが自分のデスク下に寝袋常備という信じられない光景が飛び込んできます。
デスクの引き出しを開ければカップラーメンが何個も常備されている人も多く、「あそこのスーパーで買うと安いから昼休みに1ケースくらい買ってきなよ」とも言われました。

まあ実際のところ、その会社で働いていた時は寝袋とカップラーメンは大活躍でして、会社に住んでいると錯覚するほど毎日のように会社に泊まりこんで朝昼晩とカップラーメンをすすることが多かったです。

だいたい朝10時くらいから夜中の0時くらいまで働いて、最後に休憩室で他部署のスタッフ達と会話をした後、デスク下の寝袋へ入り込んで就寝、というのが通常ルーティンでした。
寝る前に懐中電灯の明かりで読書(漫画)などをしていると、渋谷に近い大都会の喧騒の中にいるにもかかわらず、 キャンプでもしているかのような不思議な感覚になることがたまにありました。

因みにどうしてこのような勤務状態になってしまうかと言いますと、3DCG制作ではパソコンのCPUパワーを多く必要とするのですが、当時のパソコンはスペックが今のように高くなかった為、レンダリングが終わるまでかなりの長い時間待っている必要があったのです。

後輩ちゃんの思い出1
自分ごときが何故に入社できたのか、周りを見渡してようやく理解できました。

⑨訪れた転機

しかし、そんな職場に身を置いていても、私は毎日の仕事が楽しくて仕方ありませんでした。
いわゆる「会社人間」ということになるのかもしれませんが、とにかくCGでご飯が食べられることの喜びが何よりも勝っていたのです。

またこの開発会社には当時、有名ゲームタイトルの続編の開発案件が多く入っていて、そのような誰もが知ってるゲームタイトルの開発に携われることも魅力的でした。

やがて月日は流れ、ゲーム開発の仕事にも慣れて3DCGチームのサブリーダーを任されるようになった頃、リーダーをやっていた先輩が私のところにある話を持ちかけてきます。

「佐藤さん、会社を辞めて二人でフリーランスになりません?」

私以上に会社人間だった先輩が突然そんなこと言い出すので、この時は本当に驚きました。
先輩によると、とあるプロジェクトで使用するグラフィック素材を外部のフリーランスデザイナーに依頼したところ、当時の社内デザイナーの給与の何倍もの額の請求書が届いたとのことです(90年代頃の3DCG外注単価は非常に高かったのです)。 で、それを見た先輩は「独立したら儲かる!」という考えに至ったそうです。

この頃になると私も、都会のキャンプ生活続きにもそろそろ飽きてきていましたし、気の合う先輩と一緒に新しい環境にチャレンジするのも面白そうだったので、即座にお誘いに乗ることにしました。

後になり、「あの時はよく二つ返事で誘いに乗ったなあ...」と思うこともたまにあります。 ですが当時の私達は、仕事そのものにはやりがいは感じていたのですが、週6~7日勤務で会社宿泊が当たり前にもかかわらず残業代は1円も出ないし給料も大特価だったので、 職場に対しては既に未練を持たなくなっていました。

また、私達には現場全体がデスマーチ(修羅場)に陥ってもそれを何度もかい潜った経験がありました。
特に私たちのチームが最後に携わった某タイトルの開発は、その後にWikipedia上で開発詳細が詳しくまとめられてしまうほど大炎上したプロジェクトだったので、 「何の仕事を請けたとしてもアレ以上にはなるまい...」とヘンな自信を持ってもいたのでした。

余談ですが、当時在籍していたこの開発会社は、私たちが退社した数年後に念願の上場を果たし、その少し前からスタッフの労働環境が劇的に改善されたそうです。
そして、ずっと根気良く在籍し続けていた当時の同僚達は、ストックオプション制度のお蔭でみんなホクホクになったという話を後で聞かされ、先輩と私はしばし無言になりました。

後輩ちゃんの思い出2
GWも年末年始も正月も関係なくずっと出社してたなあ…今の自分なら絶対断るけど。

⑩フリーランス時代

前述のゲーム開発会社を退社した後の私達は、共同で制作ユニットを立ち上げました。そして、3DCGムービーやモデル制作、Webデザイン、Webシステム制作、イラスト、商品パッケージデザインなどできる仕事は何でも手がけることにしました。

先輩のほうはデザイン畑一筋の人だったので最初は仕事が入るか心配してましたが、私は以前が営業職だったので 「仕事は自分から取りに行けばなんとかなる」という考え方でそれほど心配はしていませんでした。

実際のところ、当時は「IT革命」、「マルチメディア」といった言葉が常に経済紙を賑わせていた時代だったので私たちの仕事は山のようにあり、 最初の顧客がつくと、その紹介の紹介の紹介、、という形でどんどん顧客が増えてゆき、新規客の獲得に苦労した記憶はありません。

そして、そこそこ順調な状態が続いていた私達でしたが、やがて転機が訪れます。
元々、先輩と自分は技術的な方向性も異なってましたし、また私達はそれぞれが別々の顧客に対して営業をしていたこともあり、ユニットで受注する必要性が徐々に薄くなってきました。

そして丁度その時期、とあるお客様から私のところに法人化を勧めるご相談が来ました。
そのお客様のところでは個人相手の場合は発注金額に上限があったのですが、受注予定だったプロジェクトの規模はその額を超えていたのです。
そのご相談を受けて、もちろん私は即座に法人化を決心します。

この時、先輩と一緒に法人化するという選択肢もあったのですが、先輩の意見を聞いたところ「まだしばらくは個人でやってたい」という返事だったので、結局私は自分だけで法人を設立することにしました。

因みに余談ですが、先輩はこの制作ユニットをそのまま法人化した結果、現在は弊社以上に成功を収めるに至っています。

もちろん先輩とは今もたまに一緒に仕事をするほど非常に良好な関係で今日に至っていますが、ほぼ素人だった私が短期間でフリーランスとして独立するところまで行けたのは、この先輩の存在が非常に大きく、 また独立のきっかけを頂いたという点でも、この方との出会いには本当に感謝しています。

フリーランスになったはいいが…
仕事のストレスも重なり当時は20kgくらい増えました。

⑪会社設立

プロジェクトのスタートが目前だった為、私は会社の設立は急ピッチで進める必要がありました。
当時は丸一日休める日は2ヶ月に1回あるかどうかという多忙な日々でしたが、自分の勉強も兼ねて会社の設立の手続きは全部一人でやることにしました。

まずはネットで調べてみたのですが、当時はまだGoogleも存在しておらず、今ほどWebサイト数も無かったので、「会社 設立方法」というキーワードで検索しても、そのようなニッチな情報を細かく解説してくれるサイトはほぼありませんでした。
仕方ないので私は書店で「会社設立」の手引き本を購入し、そこに書かれている通りに一つ一つ手続きを進めていきました。

ですが、買ったその本には大事なところがあまり細かく書かれていなかったのでかなり苦労しました。

例えば、法人の設立には定款と呼ばれる組織の根本規則を記した書面を作るのですが、法務局に提出する前に「公証役場」という所で定款の内容を事前に認証してもらう必要がありました。
買った本には「作った定款を公証役場に持っていけ」といったことだけが記されていたのですが、私は「役場」という名称からして市役所のようなところだと勝手に思いこみ、事前連絡もせずに最寄りの適当な公証役場に足を運びました。

実際に訪ねたところは市役所というより小さな個人事務所のようなところで、確かに事務所の構えからしてもいきなり訪ねて行っても良い雰囲気は微塵も感じられませんでした。 そして案の定「事前予約も無くいきなり来られても困るので予約後にまた来てください」と窓口の方に門前払いされてしまいます。

ですが次の予約日が1ヵ月以上先になると聞いて私は焦ります。
と言うのも、この時既にプロジェクト開始までの残り時間がほとんど無かったからなのですが、会社の設立が遅れはそのまま契約書締結と発注の遅れに直結するのです。

ところが、そのやり取りを後ろで聞いていたこちらの公証人の先生が「今は少しだけ時間あるんでもしよければ見ようか」と温かく招き入れていただけたのは本当に幸運でした。
結果的に、こちらの先生からは定款作成の細かいアドバイスを色々いただき、その後の法務局での手続きもスムーズに通すことができました。

会社の設立にあたってはその他にも苦労が色々ありましたが、その後私は平成12年の年末に自分の会社の登記簿謄本をようやく手にします。
これが弊社、セルナビが誕生した瞬間でした。

近所で噂の男
この漫画はもちろんフィクションです。

最後に

代表取締役写真

こうして会社設立までの出来事を振り返ってみると、人との出会いが様々な転機につながってきたことに改めて気づかされます。

そして会社設立以降は間違いなくスタッフ達との出会いが会社の転機に大きく影響してきました。
その結果として私が1人で始めた弊社は、気が付けばWebシステム開発、サーバ管理、コンシューマーゲーム開発、アプリ開発など、今日では幅広い業務を行うまでに成長しました。
もちろんそれは決して私だけでは実現できなかったことで、全て弊社スタッフ達のお陰であることは言うまでもありません。

私は大勢が参加するビンゴゲームで一度も賞品を当てたことがなく、スーパーの福引でもポケットティッシュより上の景品はもらったことがないほど日常的な運を持っていない人間だと自覚しています。 ですが今日の結果を見るに、私は人との出会いの運だけは非常に良かったようです。 もちろん次に入社するスタッフとの出会いも、きっと良い出会いになるものと信じています。

長い文章にもかかわらず、最後までお付き合いいただき誠にありがとうございました。

佐藤 昌平(さとうしょうへい)
神奈川県横浜市出身。座右の銘は『先義後利』。趣味は野球観戦、ゴルフ、硬式テニス、映画鑑賞、料理等。2013年に仲間と共に立ち上げた社会人テニスサークル(非営利団体/登録メンバー約120人)の代表も務めている。